株式会社ナウハウス
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ナウハウス所長の鈴木です。今何を感じ、どのように建築に向き合っているのかを伝えていければと思います。
ナウハウス一級建築士の高橋です。設計を通して感じたことや現場の進捗を気軽に綴っていきたいと思います。

〒430-0817
静岡県浜松市南区頭陀寺町330−20
TEL.053-461-3408

2005-10-20
 「ZOOO」は一見すると幼稚園に見えないかもしれません。田園に囲まれた環境で真言宗の寺が経営する幼稚園はどうあるべきか、ということを一生懸命考えました。周囲は川や田畑に囲まれ自然がいっぱいですが、自然の脅威も大きく、冬の「遠州のからっ風」には体ごと吹き飛ばされてしまいそうです。既製の幼稚園ではとても園児を守ることはできません。ここに建つ幼稚園は、園庭ごと園児を守る「砦」でなくてはなりません。
 建築は人工的な行為ですから、的をしぼった「しかけ」が必要です。建築は多くの制限でがんじがらめで、実現するためにはさまざまな困難を伴っています。空間や時間を読み込んだ「しかけ」は、豊かな建築をつくり、使い手に息の長い恵みを与えてくれるのです。
 様々な工夫によって、「実現する」という画期的な出来事は、かつては問題点でしかなかった敷地の特性を、その場ならではの魅力に一変させてしまうことがあるのです。これはちょうど飛行機の「離陸」の感覚に似ています。滑走時にはただの抵抗であった空気が、「離陸」の時には重い飛行機の機体を支えています。ドッドッドッという音や振動が一瞬のうちに消えて、フワリとした浮遊感を感じた経験がありませんか。建築は敷地の条件や法律、コストや構造など多くの制限があります。このしがらみを克服することが建築の離陸であり、建築の醍醐味なのです。「離陸」に成功した飛行機は何のしがらみも感じさせず、軽々と気持ち良さそうに飛んでいるではありませんか。
 「ZOOO」は「建築の醍醐味」と空間の「しかけ」によって、園舎と園庭が総合的・有機的に計画されています。園舎全体がわくわくする遊び場なのです。園庭には小川が流れ、レモンやミカンが主といった実のなる樹木が植えられています。季節ごとに色とりどりの花が咲き、中心の大きな木はシラカシで、どんぐりをいっぱい実らせます。法律上必要な調整池のための高床は、園児に冒険心をそそる洞穴を提供しています。タタキづくりの登れる山や路地空間は、そのまま楽しい遊び場です。
 それぞれの保育室はすべて平屋建てです。保育室は自然光で明るく、昼間は点灯する必要がありません。また、面積も基準の30~50%程の余裕があって、進級するにつれて広くなっています。「成長の証」を園児みずからが自覚できるように、周囲の景観とともに保育室を色調やロフトで進級するごとに変化させました。明るいトイレと下足入れが付属している保育室は、教室というよりも住宅のリビングルームです。2階の広く明るいホールの奥にはおごそかに大日如来が安置され、常に子供たちを見守っています。日々の生活の中で、仏に手を合わせることを教えてくれるのは真言宗の「ZOOO」ならではです。
 南の展望フロアからは国道1号線が見えます。ひっきりなしにトラックやバスが行き交う大動脈です。田園のかなたのダイナミックな風景は子供たちのお気に入りとなっているに違いありません。
 「ZOOO」では、自然に恵まれた立地条件を生かし、自然体験学習を積極的に取り入れる方針です。幼稚園は子供たちにとって、初めて経験する社会です。みずからの自然体験を通じ、発見することによって感動し、生命のつながりをダイナミズムに学んでくれればいいと思います。そして、この体験がいつまでも原風景として心に残る幼稚園であって欲しいと願っております。
 この幼稚園は先生や父兄の協力を得て、時間と共に完成させていく施設です。この幼稚園の構想の原点は「大きなキャパシティを持つ」ことでした。大きく打てば大きく響き、小さく打てば小さく響くようなデリカシーも必要だと考えました。富士山のすばらしさはその高さよりもむしろ、その広大な裾野にあるかもしれません。富士山の裾野のようなキャパシティをこの幼稚園で見つけて下さればとの思いでいっぱいです。幼稚園のソフトを支える手厚い協力こそが、真の「新しい幼稚園」に生まれ変わらせてくれるのではないかと思っています。
2005-10-05
建築の実現にはさまざまな困難が伴います。多くの制限でがんじがらめですが、実現されるという画期的なできごとによって、問題点が敷地特有の場所の魅力に一変してしまうことがあるのです。「鹿谷の家」は崖下の鋭角的な三角地で街路樹の桜が敷地に侵入していましたし、「小山歯科医院」は既存建物までも敷地条件の一部として増改築し、新たな建物に変身しました。
 とりわけ1998年に竣工した「頭陀寺の庭」はハンディそのものを逆転させようという試みでした。頭陀寺は遠州きっての古刹ですが、幾多の戦乱によって焼失を繰り返しています。近年、都市化に伴う土地区画整理事業によって「境内」と「墓地」に分断されました。しかし分断されたという受身の発想をやめて、ここを通るひとはみな寺に来てくれた人だと考え、かえって地域の人々との交流が深まるしかけを工夫できる機会ではないかと思い直しました。そのためにはこの場所が足早に通り過ぎる所ではなく、親しみが湧く所でなくてはなりません。
 まず、この場所の独自性を明確にしてから、具現化の方法を考えてみました。最初に「境内」を水平の庭、「墓地」を垂直の庭とイメージしました。「境内」での水平といえる日常生活に対し、「墓地」は垂直的な想像力が飛躍する象徴的な場所ではないかと考えました。
 つまり「境内」は日常的な営みの場で寺としての伝統的な様式を要求されるところであり、そこは収束的ではなく、むしろ散漫に水平に広がっていくところです。一方、「墓地」は輪廻を思う者が命の連鎖を信じ、死者を弔い先祖を偲ぶ象徴的な場所としてあります。信じるということは、次元を超える飛躍であって、それはきわめて垂直的なことだと思うのです。このようにそれぞれの特性を明確にして、分断している道路を頭陀寺の内部にしようと考えました。
 そのためには限られた予算と狭いスペースを乗り越えるアイデアが必要でした。日常的で伝統的な「境内」は鉄筋コンクリート造の白壁として寺の基調としました。公道の内部化は最大の目的であるので、公道に面して池や庭を配置しました。二ヶ所の出入り口も内部化するためのしかけで、緑のトンネルによって「境内」と「墓地」が繋がることになれば理想的です。
 非日常的な「墓地」は、赤サビた鉄板による平面的あるいは立体的なフレーミングによって解放性と閉鎖性を調節しました。外部からは墓石は見えませんが、いったんこの道路に入れば通りすがりに手を合わせることができます。
 フレーミングによる陰影感や視差、あるいは遠景と近景の並置による遠近感といった人間の認識の特性にも着目し、逆に囲うことによって限られた空間を拡げようとすることでこの道路に閉鎖感を感じさせないのです。
 かつてここは老朽化したブロック塀や万代塀によって囲われ、人々が足早に通り過ぎるところでした。しかしいま掘抜き水が流れる池と、シャープな赤サビの鉄板による開放的な構成がなされ、鋭角的な墓石が垂直方向へのリズム感を増幅しています。
 正月に取り替えられる青竹は、人々に新年の訪れを知らせます。また墓地の軸であるしだれ桜や入口の百日紅が季節ごとにみごとな花を咲かせ、墓参りの人々を迎えています。池にはメダカも泳いでいて、ささやかなオアシスとなっています。ここを通る人はすべて寺に来てくれた人にちがいないと思うのです。
2005-08-09
バウハウスの「バウ」は大聖堂を建てる時の職人の集まる「現場小屋」で、日常的な建築といった意味合いです。グロピウスは国民の日常生活に根ざした造形活動を理想としていたのです。
 私の卒論は、パウル・クレーのバウハウスでの講義録の「造形思考」によって「クレーによる生成の概念」を論じるというものでした。当時の私にとって、「造形思考」は造形作法の羅列としか思えず、無味乾燥で閉口したものです。しかし、クレーの絵画は見るほどにすばらしく、見飽きることはありませんでした。単なる素材と命を吹き込まれた作品を比べて、創造による目の醒めるような飛躍を思い知らされました。       
 バウハウスを、学生時代のできごとだけで終わらせたくないと考えた私は、BをNに変えて「ナウハウス」をひねりだしました。「ナウ」は「今の時代の」とか「時代にあった」といったイメージです。「時代の切口」を見つけることが創造の入口だと考えました。
 建築の実現にはさまざまな困難が伴います。多くの制限でがんじがらめですが、実現されるという画期的なできごとによって、問題点が魅力に変わってしまうことがあることを知っています。これを「離陸した建築」と呼びたいと思います。そして、「離陸した建築」は学生時代からのナウハウスの夢です。
2005-08-02
最近、ナウハウスを訪ねてくれるクライアントで多いのが、ハウスメーカーでは満足できないというお客さんです。「そこで話をしたが、営業マンの言葉ははっきりしているがどうもしっくりこない、何かが違う」とか「ハウスメーカーはお金の話しかしない」というので来られた方がほとんどです。
 ハウスメーカーと建築設計事務所の一番の相違は、打ち合わせをする人が営業マンであるか、設計者自身であるかということです。これがいちばん大きな違いです。お客さんは,スクラップブックを見せてこうしたいと言われることがありますが、実は後ろに隠れた要望があることが多く、「要はどうして欲しいのか」を見抜かないといけません。奥に潜んでいる本質や生活の中身を読み取り、クライアントの要望を実現させるために根本から建築的解決をしようとするのが設計者の本来の仕事です。
 一般に住宅メーカーは営業マンと設計者が別であるのが普通です。そうでなければハウスメーカーとしての経営が成り立たたないでしょう。注文住宅といいながら,すでにできている商品をアレンジして売ろうとするのは自動車メーカーと似ています。
 ハウスメーカーは営業に多くの力を注ぎ、営業力に優れています。ハウスメーカーで家を建てるということは、車を買うように「家を買う」という発想に近いと思います。家は買うものではなく、設計者とクライアントが多くの打ち合わせを重ねて、いっしょにつくっていくものではないでしょうか。
 家の寿命はクルマのそれよりもはるかに長いものです。家づくりを通してこれからの10年の人生設計を考えてみようとするならば、家を物として買うことは「価値ある人生を過ごしたい」と願うクライアントの気持ちにそぐわないものではないかと思います。
 いい家というのは、その時代を受け入れ、風景が変わっていくようなおおらかさがあると思います。時代の流れにある程度は合わせて、リニューアルやリフレッシュできる住宅がいい家であると言えます。内装の張替えや水廻りの設備の入れ替えだけでなく、家族の変化や暮らし方に合わせて「空間の質」を調整していくことができればいいと思います。
 住宅は必ず老化していくものですから、手を入れてよみがえることができる余力を持っていなければなりません。この余力が住宅のポテンシャルです。ハウスメーカーの住宅は建てたときが最高の状態で、このときにお客さんに引き渡されます。この住宅は構造物として経済的にぎりぎりの追求をしているため、壁ひとつ動かすことができないこともあります。
 ハウスメーカーはシックハウス対策や耐震、あるい は高断熱工法といったキーワードを謳います.営業マンは設計者ではありませんのでインパクトのあるキーワードを並べることで商品としての住宅を説明します。キーワードで挙げられている項目は正しいのですが、それらがバランスがとれているほうが大切なのです。
 ハウスメーカーの住宅がなにかしっくりこないと言ってナウハウスにお見えになる方は、この点に気が付かれているのだと思います。毎日の食事にたとえれば、素材の味を生かした料理は味付けはやや淡く、飽きることがありません。ジャンクフードが安くて味が濃く、分かりやすい味付けであることに似ています。住宅の設計は全体でバランスをとるセンスが必要なのです。
 家づくりはその敷地特有の性格を見つけることから始まります。その土地の環境と住宅がぴったりと合っていなければしっくりこないのです。敷地内に単に入っているだけではダメです。家族は建てる動機を明確にすることによって、家族の生活や、どんな暮らし方をしたいのかを思い描いていくことができるのです。
 ハウスメーカーはハイグレードの住宅を提供しようと、浴室やシステムキッチン、洗面台といった什器を高価にすることでイメージの差異をつけようとしますが、価格が上がる一方です。目的に応じたほどほどの什器をうまく組み合わせれば、価格以上の効果を上げることはセンスしだいでどうにもなることなのです。
 いい家をつくるためには「生活の哲学がある、暮らしの知恵がある」といったことのほうが大切です。そうであればおのずと実現したいことの優先順位ができてくるはずです。家づくりを通して人生設計をすることになると思います。家族のあいだで今まで曖昧になっていたことが、新築にあたって整理しなければならなくなることはよくあることです。住宅設計は人生設計と考えたほうがいいと思います。
 人生を見直すことは家づくりの副産物ではなくて、実は最大の収穫物かもしれません。自分が本当に欲するものが何であるかを考えることは、家づくりを始めるクライアントの特権ではないでしょうか。
2005-07-22
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