株式会社ナウハウス
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ナウハウス所長の鈴木です。今何を感じ、どのように建築に向き合っているのかを伝えていければと思います。
ナウハウス一級建築士の高橋です。設計を通して感じたことや現場の進捗を気軽に綴っていきたいと思います。

〒430-0817
静岡県浜松市南区頭陀寺町330−20
TEL.053-461-3408

2010-04-08
コンペ中でもあり、後ろ髪を引かれる思いで熱海へ向かった。3日間で2つのセミナーに参加し、グループに別れてプレゼンするというメニューであった。建築家の本領で、テーマも方法も自由、あみだくじでグループ分けして、コンセプトを発信させるプログラム。思えば、身近な素材と手持ちの方法で、なんらかの成果を出すのは我々の日常の仕事である。セミナー1は天工人の山下保博さんの「価値の再編集」と「Cross Culture」という山下さん流の力のはいった話。建築力が端々に光って説得力を持つ。大学や企業と組織を立ち上げ、周囲を巻き込み、新開発に及ぶくだりは、彼の特別な離陸能力以外の何物でもない。対照的なセミナー2の馬場正尊さんの「建築とメディアと都市再生」のお話。力が抜いて建築をメディアや情報から見ている。建築家は建築の領域を限定しすぎてはいないか?デザイナーとして、もっと予見を作るところで働く必要があるのでは?「建築家はニーズを探すのではなく、ニーズを作る」ことがお二人の主張でした。私たちのプレゼンは長野の門前町の再開発。主旨は、相手の言い分に乗っかって提案できるプロの芸を発揮し、建築のプロとして建築的視点から地方を見直し、再発見することすることでした。最後の日、春というのにみぞれの中、タウトの旧日向別邸と隅さんの水/ガラスを見たがそれほどの感銘はなかった。翌日効果抜群、スタッフから顔色がよくなったとほめられた。確かにセミナーも深夜の酒宴も温泉も刺激的だったが、私が元気になった理由は、留守中のスタッフによる、予想以上のコンペ作業の進展であったことはまだ明かしていない。
2010-02-20
1月末、東京の建設会社に招かれ「環境デザイン 地方からの発信」というテーマで講演会を行いました。近作の「隙屋」から「ZOOO」ずだじ幼稚園、「Body&Soulナウハウス」を例にお話をさせていただきました。
わざわざ「地方からの発信」とした理由は、地方が都会より不利というばかりではないこと、また価値観はきわめて多様であり、不利な条件と思われていることが必ず不利というわけでもなく、見方を変えれば予想外のよい結果を得られることを強調したかったからです。
「隙屋」は東京に住んでいた方が、都会に住んでいたから地方のよさがよく分って、交通の利便を熟慮して浜松に住居を構えたものです。地元に住んでいては分からないところに目をつけ、成功した例です。クライアントは売れっ子の建築写真家というアクティブな職業であったこともうまくいった理由です。交際範囲も広く、全国からさまざまな仕事のプロがおみえになり、浜名湖の恵みを満喫されています。「隙屋」の空間を、「これまでに触れたことのない心地よい空間を堪能した」との感想に、設計者冥利に尽き、恐縮しております。
「隙屋」のコンセプトは、クライアントの「住まいは、至れり尽くせりでなくていい」ことから始まりました。人生を経て、ものごとが分かっている人のスタンスです。現代の住宅は高気密・高断熱がいいと一律的に思いすぎているのかもしれません。浜名湖の温暖な環境を利用して、環境に適した住まいを作る。最小のしつらえでコストを減らし、自然を楽しむ生活をする。自然な生活から逆に気候風土に根ざしたアクティビティを見つけて、豊かさを満喫するということです。
「ZOOO」ずだじ幼稚園は、2000年に設計した真言宗のお寺が経営する私立の幼稚園です。2010年の正月、テレビで宮崎駿監督と養老孟司さんの対談があり、三鷹の森「ジブリ美術館」のとなりの「夢の保育園」を話題にし、子供の育て方を論じていました。
「夢の保育園」は、過保護な現代の風潮へ疑問を呈し
1.やたらにバリアフリーにする風潮に対して、階段をいっぱいつくった
2.子供にバランス能力をつけるように、わざと敷地に凹凸をつけている
3.池を作って、子供が水に落ちたり汚れることを恐れない
4.地下室や暗闇をつくって、闇の存在を教える
5.刃物から遠ざけない。危険なものから離れすぎさせない
というようなことをあげて、
「生きるということは危険と隣り合わせであるから、こどもの危機回避能力を育てなければならない」ことを強調していました。 
じつは「ZООО」も2000年の段階でそんなコセプトで幼稚園を作っていました。私の子供のときは、遊び場が森の中、田んぼ、小川、防空壕でありました。私のノスタルジーもあって「怪我をしても、死ぬことはないだろう」と自然がいっぱいの幼稚園を作りました。安全は十分考慮しました。
地方の幼稚園として、都会とは異なる地域の良さを引き出し、大きなキャパシティを持った施設であろうと心がけました。周囲の畑で色々な野菜を育て、収穫する喜びも味わっています。この幼稚園は一見すると幼稚園に見えないかもしれない。しかしこの形態は、ローコストで、地方ならではの立地を生かし、初めて経験する社会として子供の想像力を喚起させる、新しい幼稚園のかたちを実現したいと思ったからでした。
建築の実現にはさまざまな困難が伴います。敷地条件や法規、構造やコストでがんじがらめですが、これを逆手にとって建築として実現すると、問題点であったことが場所の魅力になります。できてしまえばその建築は力強く、のびのびとして何のしがらみも感じさせないことがあります。「離陸した設計」とは飛行機における空気のように、抵抗でしかなかった多くの制限を「建築を支える力」に変えることに成功した設計だと考えています。
「Body&Soulナウハウス」は私の事務所であり、住宅です。1985年に竣工しましたから、25年が経ちます。4半世紀も経ちますと人生のほとんどを経験します。この家で結婚式からジャズのライブ、会社の創立総会、浜松祭りの初子のお祝い、昨年の父の葬式などすべてを行いました。この家は昔の田舎の家のように、冠婚葬祭、ハレとケに対応できる家として企画しました。
心ある建築設計者は、「ゲニウス・ロキ」という、「土地からインスピレーションを連想させる概念」があることを知っています。他の土地では成り立たないが、特定の土地では極めて有効なインスピレーションとなる「土地特有の力」が「ゲニウス・ロキ」です。
「隙屋」、「ZOOO」ずだじ幼稚園も「ゲニウス・ロキ」の力を使って設計をしました。「Body&Soulナウハウス」は、さらに「ゲニウス・ロキ」に人間の儀式や慣習を設計の要素として加え、イメージの源としました。建築設計に時間軸を導入するという壮大な試みです。フロアーごとに空間にヒエラルキーを与えてハレとケの節目づくりに対応させました。
独立しますととにかくいろいろなことが起こり、それをすべて自分で解決しなければなりません。苦しみながら一つ一つ建築をつくってきました。この過程が大切です。 建築を単なるビジネスと考えないで、「建築する意味、建築だから出来ること」を一生懸命考えてやってきました。建築をまとめきるのはたいへんなエネルギーがいりますが、ポイントさえ外さなければ、そんなに悪い建物にならないとも思います。建築することの責任を感じるとともに建築が面白くなり、今では大好きになってしまいました。
これを逆に言いますと、建築を単なるビジネスと考えていると、建築において大事なことや意味あることができず、建築が嫌いになってしまうということです。建築が面白いのは「社会からのはっきりした手ごたえがある」からなのだと思います。
現在、建築の世界もコンピューターなしではやっていけなくなりました。インターネットであらゆる情報が集まります。住宅メーカーは表面的な口当たりのいい営業をして、表面的に面白いもの、表面的にビジネスが中心になるものが横行しています。今のような情報社会では、本当に建築が好きで、建築が分かる人とそうでない人の区別が付きにくくなっています。10年仕事をやっている人に、2,3年しかやっていない人が表面的には追いついたかにみえてしまうところに問題があります。
コンペをやっていて感じたことはじつに素朴です。
建築をつくる根拠となる「社会への批評的精神が、ポイントを突いているか否か」です。この点が建築が面白くなったり好きになったりするところで、しかもとても時間がかかるところです。
2009-12-01
建築のコンペには、書類審査を終えていくつかの候補作品を選び、プレゼンテーションを行うことがあります。その「プレゼン」を私は「プリゼン」と言っていて、訂正されたことがあります。プレゼンスはレですし、プレゼントは形容詞や名詞ではレですが、動詞になるとアクセントが後ろにきてプリゼントになります。そこで「プレゼンテーション」を辞書で調べてみますと「プリゼンテーション」の発音表記もあってどちらでもいいことになっていました。てっきり「プレゼンテーション」は日本語読みで、「プリゼンテーション」が正解だと思っていましたので、どちらでもいいとは意外な結果でした。
「プレゼント」ついでですが、先日、娘から銀の面白い指輪をプレゼントされました。なんと銀婚式のお祝いだそうです。ラフォーレ原宿3Fのgondoaの、デザイナー谷勇 作のもので、妻の指輪は18匹の蛾(名前?)が繊細に重ねられてデザインされ、小指に嵌めてみるとしっくりきます。私の指輪はフリーサイズの幅2㎝の重厚なもので、指に当たる裏側にはトルクァータ・オオツノ・ハナムグリという昆虫が彫刻され、その反転のふくらみが表に微妙に出ているというデザインがとても気に入りました。結婚指輪さえ身に付ける習慣がありませんでしたが、この銀製の大ぶりの指輪を左手の中指にはめて、お守り代わりにすることにしました。なにかいいことがあるかもしれません。
さらにまったく偶然なのですが、ゆうべ帰省した息子からユニクロの長袖ハイネックTシャツの黒と紺をプレゼントされ、なにより初めてのことでたいへん驚きました。私は普段はワイシャツにベストという組み合わせばかりで、季節がら薄手のハイネックをラフに着てみようとも思っていましたので、まったくいいタイミングでした。この冬をすこしは暖かく過ごせそうです。いずれにせよ、頼んだわけでもないプレゼントが私にしっくりきたのはなぜかと、不思議に思うのですがただの偶然だけではなさそうです。例外はいくらでもあるので親子だからだけというわけでもないのですが、素直に喜んでおくべきでしょう。
2009-11-27
新年の挨拶にかえて一年のご挨拶をさせていただきます。

(重源の極楽山浄土堂)
初めに父・進が去る5月9日に85歳の生涯を全うし、愛犬のラブラが11月12日に14歳の天寿を終えたことをご報告いたします。家族の死に直面して思うことは、2度と会えないという現実で、「死」とは「見る」こと、「会う」ことの可能性の否定形です。今年ほど「百聞は一見にしかず」の意味を考えたことがありません。かねてより見たいと思っていた、重源の極楽山浄土寺浄土堂を訪ねたときのことです。大陸風のザックリとした天竺様の浄土堂の中で、逆光で浮かび上がる阿弥陀三尊像の前で思わず立ち尽くしてしまい、見るというよりも会えたという体験でした。「百聞は一見にしかずに値するか否か」は、芸術や本物を見分ける目利きや鑑定の、生死を分ける、れっきとした基準なのです。
子供たちも家を離れ、わが家はいっぺんに寂しくなりました。食いしん坊のラブラもいません。早朝のテレビ体操を母や妻と始め、お茶を飲むのが日課となりました。今年から、とっておきの清春の出刃包丁を取り出し、舞阪で仕入れた旬の魚を調理することを始めました。カマスや甘鯛の一夜干しは絶品です。カツオの頃には名人となっていると思います。皆さまのご健康とご活躍をお祈りいたします。
2009-11-17
「ラブラ」はわが家の黒のラブラドールです。
ナウハウスに来たのは息子が5、6歳のころで、子供たちと成長期をともに過ごしました。夏になると海や山に行くのが恒例になって、祖父や祖母を交え、家族全員のキャンプを7年間続けました。甘えん坊の「ラブラ」は、トイレで姿を隠しただけで私を呼び続け、私は落ち着いて用足しができませんでした。サッカーボールでの遊びが大好きで、母が蹴ったシュートを見事にキャッチしていました。私が蹴るときは少し下がり気味であることに気づき、彼女なりの判断があることに感心しました。あるとき森林公園でサッカー少年の中に飛び込み、パスのカットに夢中になっていました。隠れますと私が見えなくなったこと気づき、とたんにおろおろして落ち着かない様子。姿をあらわすと、サッカーそっちのけで一目散に走ってきました。懐かしく幸福な思い出です。「ラブラ」は14歳と6ヶ月になりましたから、人間であれば90歳を越えています。
去年の正月ぐらいから、あんなに好きだった散歩ができなくなりました。遠州灘の松林を一時間ぐらい散歩するのですが、途中でへたり込んでしまうようになってしまいました。しだいに右前足の筋力を失い始め、びっこを引くようになってきました。違和感があるのか右足の間接部を舐め始め、スジが見えるまで舐めつくしてしまうことがありました。あわてて動物病院に駆け込みました。どうも右前足の脇のリンパ腺に悪性の腫瘍ができているらしいとのこと。とりあえず傷口の治療をして、そこに触れないよう樹脂性の逆椀状の首巻を巻くことにしました。
かつてように遠方への散歩はできなくなって、駐車場に行ってトイレをして帰るだけの散歩になりました。いつも一緒に行った海岸への散歩は、私一人だけのものになってしまいました。相棒としていろいろなところに散歩に行きましたから、ずいぶん寂しいことになってしまいました。今年の9月になると悪性腫瘍がさらに大きくなり、右前足の筋肉はすっかり落ちてしまいました。それでも用足しのためには3本足で懸命に歩こうとし、近くの道路の決めた場所で、犬らしく縄張りを主張していました。そして10月になるとそれもかなわず、家族の介護とオムツが必要になりました。それでも食欲だけは旺盛で、ドッグフードを食べた後にもおねだりをするのはいつものことでした。
10月12日の朝のことです。食いしん坊のあの「ラブラ」が朝ごはんを食べようとしません。かつては2度の朝食を平然と食べ、フリスビーで遊んでも翌朝にはそれを食べてしまうという健啖ぶりを誇っていました。この日は好物のパンをやってもわずかに飲み込むだけです。炭水化物は悪性腫瘍の栄養源ということで与えることを控えていましたが、そんなことも言っておれません。そんな状態にもかかわらず、私の姿を見つけると健気に尾を振るのです。そのときが近いと感じた私は、家族を呼び「ラブラ」に声をかけ体をさすりました。気のせいか「ラブラ」の目が涙で光っているように見えました。その夜遅く、「ラブラ」は息を引き取りました。
5月に父が亡くなり、半年後に家族同然の「ラブラ」がこの世を去りました。死とは再び会えないことであり、二度とコミュニケーションを交わすことができないことです。人間とペットを同等視するわけではありませんが、「ラブラ」がいなくなって間もないことでもあって、言葉でコミュニケーションすることができた父と、なんか分かり合うだけというペットとの関係の違いなのか、いつものところにいないという喪失感は、かえってペットのほうが強いような気がしました。犬は最後の瞬間まで身をゆだねきるだけなのに、人間には死に対する本人の覚悟というものを感じていて、犬にはそれを感じないないからかもしれません。いずれにしろ死の喪失感で悲しむのは死んだ本人ではなく、残された者です。そしてその喪失感に慣れることがすこしもないのです。
2009-11-11
建築の実現にはさまざまな困難が伴います。多くの制限でがんじがらめですが、実現されるという画期的なできごとによって、問題点が敷地所有の場所の魅力に一変してしまうことがあるのです。
 「鹿谷の家」は崖下の鋭角的な三角地で街路樹の桜が敷地に侵入していましたし、「小山歯科医院」は既設建物までも敷地条件の一部として増改築し、新たな建物に変身しました。
とりわけ1998年に竣工した、「頭陀寺の庭」はハンディそのものを逆転させようという試みでした。頭陀寺は遠州きっての古刹ですが、幾多の戦乱によって焼失を繰り返しています。近年、都市化に伴う土地区画整理事業によって「境内」と「墓地」に分断されました。しかし分断されたという受身の発想をやめて、ここを通る人はみな寺に来てくれた人だと考え、かえって地域の人々との交流が深まるしかけを工夫できる機会ではないかと思いました。そのためにはこの場所が足早に通り過ぎる所ではなく、親しみがわく所でなくてはなりません。まず、この場所の独自性を明確にしてから、具現化の方法を考えてみることにしました。最初に「境内」を水平の庭、「墓地」を垂直の庭とイメージしました。「境内」での水平的といえる日常生活に対し、「墓地」は垂直的な想像力が飛躍する象徴的な場所ではないかと考えました。つまり「境内」日常的な営みの場で寺としての伝統的な様式を要求されるところであり、そこは収束的ではなく、むしろ散漫に水平に広がっていくところです。一方、「墓地」は輪廻を思うものが命の連鎖を信じ、死者を弔い先祖を偲ぶ象徴的な場所としてあります。信じるということは、次元を超える飛躍であって、それはきわめて垂直的だと思うのです。このようにそれぞれの特性を明確にして、分断している道路を頭陀寺の内部にしようと考えました。そのためには限られた予算と狭いスペースを乗り越えるアイディアが必要でした。日常的で伝統的な「境内」は鉄筋コンクリート造の白壁として寺の基調としました。公道の内部化は最大の目的であるので、公道の内部に面して池や庭を配置しました。二箇所の出入り口も内部化するためのしかけで、緑のトンネルによって「境内」と「墓地」が繋がることになれば、理想的です。
非日常的な「墓地」は、赤サビた鉄板による平面的あるいは立体的なフレーミングによって解放性と閉鎖性を調節しました。外部からは墓石は見えませんが、いったんこの道路に入れば通りすがりに手を合わせることができます。フレーミングによる陰影感や視差、あるいは遠景と近景の並置による遠近感といった人間の認識の特性にも着目し、逆に囲うことによって、限られた空間を拡げようとすることでこの道路に閉鎖感を感じさせないのです。かつてここは老朽化したブロック塀や万代塀によって囲われ、人々が足早に通り過ぎる所でした。しかしいま塀抜き水が流れる池と、シャープな赤サビの鉄板による開放的な構成がなされ、鋭角的な墓石が垂直方向へのリズム感を増幅しています。正月に取り替えられる青竹は、人々に新年の訪れを知らせます。また墓地の軸であるしだれ桜や入口の百日紅が季節ごとにみごとにみごとな花を咲かせ、墓参りの人々を迎えています。池にはメダカも泳いでいて、ささやかなオアシスとなっています。ここを通る人はすべて寺に来てくれた人にちがいないと思うのです。
2009-10-21
そろそろ冬支度ということで、薪割りをしました。なに?と驚かれるでしょうが、ナウハウスでは冬の暖房はほとんど薪ストーブでまかないます。これは2003年にナウハウスのアトリエを地階に移して以来、毎年続けていることです。ファンヒータ―のお世話になるのは余程寒い時だけです。竣工後24年を経て、コンクリートが乾いて蓄熱するためか、毎日、数時間だけ薪ストーブを焚きますと、それだけでけっこう過ごせるのです。

(薪ストーブ)
1985年のナウハウスの竣工時、世はボタンひとつで空調することがあたりまえになろうとしていました。当時も現在のように、家具製作所や大工は端材の処分に困り、焚き物としてそれをいくらでも手に入れることができました。しかしすでに薪でお風呂を沸かす時代ではありませんでした。時代に逆行する気持ちはありませんが、焚き火をする楽しみは捨てがたいものがありました。焚き物がタダで手に入るばかりか、処分に困る端材を有効利用できることに大きな喜びを覚えていました。私が流行やブームには少し距離を置こうとしたり、みんながそっぽを向いているものに関心を持つという性癖もあって、何かを待って行列に並んだり、混雑したデパートや渋滞している交差点は真っ平ごめんというところはあります。また焚き火の炎を見るのが結構好きなのかもしれません。しかしエアコンで電気を消費するより、薪ストーブのほうがエコとさえ言われるようになる時代が来るとは夢にも思いませんでした。
薪割りの話に戻ります。大発見があったのです。今日、大工さんがトラックいっぱいの梁や柱の端材を持ってきてくれました。まずナウハウスの中庭にそれらの端材をみんなで運びました。それから私が薪割りを始めました。そこへ一匹の蚊が耳元にブーンとやってきたことに気付きました。秋も深まり、ほとんど蚊も見なくなっていました。蚊が本能で後ろから刺しにくるというのは知っていて、蚊もなかなか考えてるとは思っていました。ブーンといわなければ完璧なのに、とも思っていました。薪割りをやめ、アースジェットを取り、チャンスを狙いました。ところが蚊はどこかに行ってしまったようです。薪割りを再開することにしました。しばらくしますとまた耳元でブーンと音がして、蚊が目の前に現れたのです。すぐにアースジェットを手に取り、じっとして蚊の来るのを待つのですが、またどこかへ行ってしまったようです。これを何回か繰り返し、とうとう蚊をしとめることはできませんでした。
後片付けも終わり、アトリエに戻りました。なにか左手の甲がかゆいのです。見るとそこがぷくんと腫れています。やられたと思いました。はたして、あの蚊は私が薪割りをしているときだけ私を刺そうとし、アースジェットを手に取ってじっとしているときは攻撃しようとしなかったにちがいないのです。穿ちすぎた見方だと思われるかもしれませんが、薪割りをやめアースジェットを構えることを3度繰り返し、いずれも蚊が姿を見せなかったことを考えると、蚊がすべてを判断していたとしか思えないのです。
凄い蚊!だと、心から感心しました。こんな賢い蚊に出会ったのははじめてです。虫けらといって侮れず、の思いしきりで、秋深まってもなお蚊が生きて残っているのはそれだけの生き延びる知恵あってのことと思うのです。凄い蚊の話、いい話でしょう?
2009-10-19
第10回JIA環境建築賞のコンペに「隙屋」を応募したところ、一時選考を通過したとのうれしい連絡が入りました。建築家の野沢正光さん、三井所清典さん、難波和彦さん、日建設計の大高一博さん、東京工業大学環境工学専攻の梅干野晁さんという錚々たる人たちが審査員です。書類審査の後、応募者立会いのもとに、審査員が二人一組で現地審査を行ないます。
「隙屋」の現地審査におみえになったのは三井所先生と難波先生です。お二人とも昔から新建築などで作品を拝見していて、勉強させていただいた先生です。審査でお会いしたのが初対面ですが、「アルセッド建築研究所」や「界工作舎」、「箱の家」はおなじみで、初めてお会いした感じがしませんでした。
午後1時半過ぎ、浜松駅でお迎えし、いろいろなお話をうかがいながら、クルマで三ケ日の「隙屋」まで向かいました。同乗のナウハウスのスタッフは「箱の家」の大ファンで、胸いっぱいになりながら、お二人のお話に耳を傾けていました。「隙屋」に着くとクライアントの建築カメラマンの小林さんが迎えてくれ、難波先生と「隙屋」のかどで、出会いがしらにお会いしました。うかがえば、難波先生はかつて小林さんに撮影をお願いしたことがあるとか。
まず外回りをご案内し、周囲の環境と「隙屋」の関係を見ていただきました。敷地を選択したいきさつから敷地の特性までを説明いたしました。凪を除いて、浜名湖からの風が常にあること、敷地の南西のヤマモモの大樹が冬の季節風を完全に防いでいることなど、ポイントを申し上げました。
ガラステーブル位置から「隙屋」の南立面を仰いで、離瓦の甍の波を見ていただきました。あいにくの天気で雨模様でしたが、瓦がしっとりとして離瓦がいっそう美しく見えていた気がいたします。
下屋から内部に入りました。広間上部の、排気のためのハイサイドライトの遠隔操作をお見せして、これが「隙屋」の空調の要であることをご説明いたしました。周囲の土間を一通り見て、2階のゲストルームをご案内しました。ここにはジョージ・ナカシマのコノイド・チェアと机があって、生前のジョージ・ナカシマから、小林さんが直接求めた貴重なものであることが話題になりました。2階からは和風の梁柱と洋組のトラスとの関係がよく分かります。2階の床剛性を高めるためのスノコのキャットウォークを通って2階上部からぐるりと「隙屋」の内部を俯瞰して、「隙屋」の「現代の納屋ぶり」を見ていただきました。 
最後に押入れの板戸を開けて地階の書斎に案内しました。海の光に向かってステージに出た後、その親密空間の説明をしました。再び地階の暖炉の周りに戻り、しばらく歓談しました。地階から伸びるトンネルから涼しい風が入ってきて気持ちがよく、時の経つのを忘れました。昨今の田舎暮らしの流行は、本当の農作業を知らない都会人の遊びかもしれないなど、田舎に埋もれきることの退屈さや厳しさに、話が盛り上がりました。本でしかお会いしたことのない二人の建築家のお話を、つぶさにお聞きできた幸運を感謝します。そればかりか、現役の設計者でしか気付かない着目に感激し、「隙屋」を理解していただいたことに感謝の気持ちでいっぱいです。たとえば、軒の長さの決め方、地階の天井と1階の床のぎりぎりの納まり、離瓦のを納めるためのハイサイドライトの位置、吹抜けの構造的弱点の解決方法など、工夫したと自負していたところを的確に指摘してくれました。難波先生からは「隙屋」は敷地条件を最大限に生かしたパッシーブハウスであるが、それにとどまらず、新しい技術も取り入れたさまざまな試みがあるとの指摘をしていただきました。10月2日の京都でのJIA大会の2時審査では、他の環境建築として工夫を凝らしたノミネート作品と並び、「隙屋」のパッシーブハウスぶりも評価していただき、いずれも知的な解決が図られていているとのお言葉を三井所先生からいただきました。
「隙屋」はいくつかのコンペに出し、入選と落選をともに経験しました。そうしているうちに分かったことは、審査されることを繰り返しているうちに、審査員側の評価軸、あるいは審査員が何が分かって何を見落としているか、究極には審査員の審査能力が、審査される側にもしだいに分かってくるということでした。これが私の言う「コンペの定点観測」という意味です。「隙屋」を通じて経験したさまざまなコンペの審査は真剣で厳しいものでしたが、それは私を確実に成長させてくれました。厳しい指摘をされたとしても、審査員が建築の設計者として生みの苦しみを知っているか否かが、審査される側にとっての共感を左右しているというのが実感です。
「隙屋」の現場審査のいきさつは、難波先生が2009年09月30日のブログで触れていました。簡潔な文章の中に「隙屋」の要点を理解していただいたことがうかがわれ、設計者としてそんな次元でコミュニケーションができたことをたいへんうれしく思いました。
2009-09-29
ナウハウスの中庭に10年ほど経った一本のレモンの樹があります。5年経っても実をつけず、枝葉ばかり伸ばしていました。青春を謳歌してばかりいて、実のあることをしない若者のようでした。そこで、現実の厳しさを知らしめるべく、枝葉を詰め根の周囲を掘り起こし、苛めてみました。すると翌年から数個が結実するようになったのです。今では20個以上の立派な実をつけています。
相変わらず樹勢は強く、剪定しても次から次へと立枝が伸びていきます。そんなレモンの若葉は、蝶の幼虫の大好物です。クロアゲハチョウがやってきては1ミリくらいの白い卵を産み付けていきます。その卵は、レモンの葉にそっくりに同化した青虫に育っていくのです。蝶の幼虫は、レモンにとってせっかくの若葉を食い散らしていく害虫です。
大きな青虫を見つけました。心を鬼にして枝切バサミで青虫を挟み、庭のタタキに打ち捨てました。助けてやってもいいじゃないかと、後悔の気持ちもあって改めて青虫を見ますと、胴がちぎれかけレモンの葉の青汁が出ています。見つかったお前が悪いのだと気を取り直し、レモンの樹の無駄な枝の剪定を続けていました。何十分立ったのでしょうか、先ほどの青虫をふと見ますと、それは懸命にどこかに逃れようかと、青汁の一筋を曳きながらゆっくりと動いているではありませんか。ちぎれそうな胴を引きずりながら懸命に歩む姿に、後悔の念はますます増してきましたが、助けるすべもありません。再び青虫を見ることも無く、事務所に戻りました。
翌朝、いつものとおり、早朝の散歩を済ませ、中庭に戻ってきました。ふと気になって昨日の青虫を探しました。青汁の痕跡はありますが、姿が見えません。瀕死の状態で、遠くに行くことはかなわないはずです。しばらく探して見たのですが、どこにも見つからないのです。助かりようのないあの青虫はどこに行ってしまったのでしょうか。悠然と消えてしまった青虫の意地を思い、ただの虫だと思っていたところに、不思議さとちょっとした感動を覚えました。
2009-09-29
最近、安藤さんの建築を見直す機会がありました。「命拾い」でも触れましたように、心臓カテーテル治療で3日間の入院したときに、「安藤忠雄の建築 1・2・3」と自伝の「建築家 安藤忠雄」、「安藤忠雄 建築手法」を持ち込み、一気に目を通してみました。
建築などは独学でしかないと思っていましたが、安藤さんの独学の悩みを聞くと、なるほどと思いました。師を持たないこと、建築を語る仲間がいないことだったと言っています。安藤さんは持ち前のバイタリティで、建築を始める前からしばし東京に出て、芸術のアバンギャルドと親交を持っていました。横尾忠則、田中一光、高松次郎、篠原有司男、篠山紀信、倉俣史朗。地元関西では、吉原治良ひきいる具体美術協会と接触を持ち、白髪一雄や村上三郎の前衛の極みの中に、目指すべき表現者のあるべき姿を見出していたように見えます。

(ルイス・バラガン サテライト・シティ・タワー)
1976年の「住吉の長屋」は衝撃的でした。屋根伏図を見ますと、3軒長屋の真ん中にコンクリートの箱が割り込んでいるイメージが画期的です。「ローズガーデン」で見るように、本来、器用な安藤さんが、意図的に、表面的なテクニックを労することを避け、抽象的アプローチで、建築的深度を深める方法をとったことの懸命さに驚きます。形態が建築的純度を高めていきながら、プログラムは洗練されていくのですが、その自律性を持った形態は古典的ですが、現代に通じる普遍性を持っていました。この方法は安藤さんの建築を特徴づけています。プラグラムの設定における極めて実用的な配慮と、光と壁を使った演出は、安藤さんの師とも言える西澤文隆の示唆が大きいと思われます。
その後の「小篠邸」、「六甲の集合住宅 1」、「TIMES」、「六甲の教会」、「光の教会」と、どんな新しいシーンに対しても、かつて前衛の極みの中で培ったアバンギャルドの精神と、建築的深度を深める方法は発揮されています。
安藤さんは打ち放しコンクリートにおいてルイス・カーンに大きい影響を受けたと言っています。しかしもうひとりのルイスについては何も語っていないのです。もうひとりのルイスとはルイス・バラガンのことです。誰も触れていませんが、私はずいぶん昔、80年代頃にルイス・バラガンの色を取ったら、安藤さんじゃあないかと、直感的に感じたことがあります。1997年に、メキシコにバラガンを見に行く機会がありました。安藤さんはバラガンとも交流があったと、バラガンに親しかった家族から聞いて、ますます安藤さんはバラガンからも影響を受けている念を強くしました。ルイス・バラガンの自邸の居間に、ジョセフ・アルバースの正方形礼讃がかけられていますが、安藤さんの好みとぴったり一致しているように思うのです。不思議に思うのは、ルイス・カーンからは影響を受けていると認めていて、なぜルイス・バラガンのそれを語らないかということです。

(ルイス・バラガン ロス・クルベス)
安藤さんの「住吉の長屋」は、どれほど小さな建築であっても新しい提案ができることを教えてくれました。安藤さんは、独学ゆえに新しい建築の道を切り開くことができました。「安藤以前」と「安藤以後」では建築界は大きく変りました。安藤さんの建築がパワフルゆえに、極端に言えば、世は「アンチ安藤」と「シンパ安藤」と分かれ新しい建築の模索をしているように見える、というのは言いすぎでしょうか。安藤さんは妹島さんと西沢さんのチームを高く評価し、自分にない資質を十分認めています。安藤さんの建築の強みが弱みになるところに、新しい建築のヒントが潜んでいそうな気がいたします。それにしても安藤さんの方法はパワフルです。

(ルイス・カーン ソーク静物学研究所)
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